
セレスティア・ヴァン・アルトリーゼの朝は、鐘より早い。
王都の兵舎のいちばん奥、隊長の部屋の窓が白むころには、彼女はもう剣を手にして中庭に立っている。金色の髪を高い位置でひとつに結び、白銀の軽いよろいをつけ、まだ誰もいない石だたみの上で千回の素ぶりをはじめる。
三百を過ぎたあたりで、兵舎の戸が開く。当番の若い兵があくびをかみ殺しながら出てくる。
「おはようございます、隊長」
「おはよう、ハンス。妹さんの熱は下がった?」
「は、はい。おかげさまで、きのうから」
「よかった。薬代は隊で持つと、会計に言ってあるわ」
兵は目をまるくして、それから深く頭を下げた。セレスティアは剣をふる手を止めずに、うなずいただけだった。
隊の兵は百と八人いる。彼女はその全員の名前と家族のことを知っていた。知ろうとして知ったのではない。王女として育った二十二年のあいだに、人の顔と名前をおぼえることは息をするのと同じになっていた。
千回をふり終えると汗をふいて食堂へ行く。兵と同じ黒パンと同じ豆のスープを食べる。王女なのだから別の食事をと言われるたびに、彼女は首をふってきた。
「隊長が先に、いいものを食べるわけにはいかないわ」
それがセレスティアの口ぐせだった。
昼は軍議だった。
城の広間に将軍たちが並ぶ。北の聖域へ向かう隊の道すじと日数と、かかる金の話が半時続いた。セレスティアはいちばん若い。いちばん若くて、ただ一人の女で、王女だった。将軍たちは彼女に向かって話すとき、少しだけ声をやわらげる。彼女はそれが好きではなかったが、顔には出さなかった。
「姫騎士隊は、あさって発ちます。聖域までは二十日。往復で、ふた月いただきます」
短くはっきり言った。将軍たちはうなずいた。
軍議が終わって廊下に出ると、年かさの侍女が待っていた。王妃からの使いで、絹の小さな包みを持っている。
「王妃さまより、道中のお菓子を」
セレスティアは包みを受け取って礼を言った。中身は見なくても分かった。王都でいちばん古い菓子屋の、くるみの砂糖がけだ。彼女が子どものころから好きなものを、母はいまでもおぼえている。
包みはよろいの内がわにしまった。
開けるのはひとりになってからだ。そして、ひとりになれるときはめったに来ない。前にもらった包みは、ひと月よろいの内がわに入ったままだった。
*
セレスティアには、人に見せないことが三つある。
ひとつは甘いものが好きなことだ。王都の菓子屋の名前なら、どの通りのどの店でも言える。けれど人前では一度も口にしたことがない。隊長が菓子を食べているところを見たら、兵がどう思うか。そう考えると手がのびなかった。
ふたつめは眠りが浅いことだ。夜中に三度は目がさめる。明け方の鐘より早く起きるのは、きまじめだからではない。それ以上寝ていられないからだった。
みっつめは、ひとりになれる時間が一日のどこにもないことだ。
朝は兵と、昼は軍議で、夕方は報告書で、夜は副長とあすの打ち合わせで。部屋に戻っても、戸の外には当番の兵が立っている。王女で隊長で、いつも誰かに見られている。それは生まれたときからそうだったので、彼女はそれを不満だと思ったことがなかった。
不満だと思ったことがないだけで、それが楽だとも思ったことはなかった。
*
その日の昼、大聖堂で召喚の儀があった。
千年に一度、聖剣が目ざめる時が近づくと異界から勇者が呼ばれる。王国の古い言い伝えだ。セレスティアは王女として儀式の立ち会いを命じられていた。
聖堂の石の床に光の輪が開いた。輪の中に四人の男が立ち、輪のふちに、五人目がひとり伏せていた。
四人は、そろって見目がよかった。背が高く、目がすずしく、まなざしがまっすぐだった。鏡の前に立つと勇者、賢者、聖騎士、弓聖と字が浮かび、そのたびに聖堂がどよめいた。四人はていねいに頭を下げ、ひとりは神官たちにまで笑いかけた。それから王の使いに囲まれて、奥の間へつれていかれた。
最後に残ったのは、伏せている男だった。黒い髪の、さえない男だった。
国田くにおという。こちらへ来るまでその名で生きてきた。ここではまだ誰もその名を知らない。
神官の女にうながされて、国田は伏せたまま、ひざで鏡の前まで進んだ。鏡の面に、古い字がぼんやり浮かんだ。前のほうはかすれて読めず、最後の一字だけがはっきりしていた。神官の女が帳面をめくり、首をかしげた。
「……犬、でございます。前の字は、かすれて読めません」
聖堂がしんとした。それから、うしろの列で誰かがふき出した。笑いは列から列へ、さざ波のように広がった。勇者を呼ぶ儀式で、犬が出た。しくじりだ、とささやく声もした。
国田は何も言わなかった。笑い声が広がっても、顔を上げなかった。
神官の女が鏡をのぞきなおそうとして、一歩近づいた。国田の額が、石の床にもう一段低くついた。
笑われたからではなかった。笑いが起きても、国田の形は少しも変わらなかった。動いたのは、女がそばに来たときだけだった。
聖堂の者たちは、鏡の字を笑っていた。笑われている男が何に向かって額を下げたのか、見ている者はいなかった。
見ていたのは、セレスティアと、もうひとりだけだった。
「殿下。あの者は、いかがいたしましょう」
神官長が声をひそめて言った。召喚された者は、鏡に何が出ても王命で預かる決まりになっている。粗末にもできず、追い返すこともできない。
「……姫騎士隊で、預かります。荷の番でもさせましょう」
セレスティアは国田を見ないで答えた。
*
国田は荷車の後ろに乗せられた。
隊はあさって北の聖域へ発つことになっていた。その支度で兵舎は昼も夜もあわただしい。国田は水だると麦袋のあいだに座らされ、誰からも話しかけられないままそこにいた。
はじめのうち、セレスティアは国田のことを忘れていた。
思い出したのは、夕方に中庭を横切ったときだった。荷車のわきを通りかかると、国田は荷台からおりて石だたみにひざをつき、額をつけた。
彼女は足を止めた。
別に何でもなかった。兵が隊長に礼をするのと同じようなものだ。ただ、何かが胸のどこかに引っかかった。
(……何かしら)
セレスティアは、そのまま歩いていった。
二度目は夜だった。報告書を持って副長の部屋へ行く途中、廊下のはしに国田がいた。荷の番をするように言われて、荷車と物置のあいだを、ひざで行き来していたらしい。彼女が通ると、国田は暗がりの中で額を床につけた。
また引っかかった。
今度は、何が引っかかったのか少し分かった。
いらだちだった。
セレスティアは自分でもおどろいた。彼女は人にいらだつことがほとんどない。できの悪い兵がいても、しかるか教えるか、どちらかだ。いらだっても何にもならないと、若いころから知っている。まして相手は、鏡に「犬」と出た、ただの荷の番だ。無能な者に彼女は関心を持たない。持つ理由がない。
それなのに、いらだっていた。
「……気のせいよ」
声に出して言って、彼女は副長の部屋の戸をたたいた。
三度目は寝る前だった。
部屋の窓から中庭が見える。月の明かりで、荷車の輪郭が白く浮かんでいた。そのわきに黒いかたまりがある。国田がひざをついて伏せたまま、動いていなかった。
誰も見ていないのに、伏せている。
誰に向かって伏せているのか。
セレスティアは、よろいの内がわから絹の包みを出した。
戸の外には当番の兵がいる。足音はつきあたりで止まっている。窓の外には誰もいない。いや、ひとりいる。けれど、あれは数に入らない。
彼女は包みをほどいて、くるみをひとつ口に入れた。
あまかった。歯の奥で砂糖がくずれる。二十二の王女は、ろうそくの火の前で音を立てないように、ゆっくりとかんだ。二つ目に手をのばしかけてやめ、包みをしまった。
それから寝台に入って目を閉じたが、眠れなかった。それはいつものことだった。
けれど、いつもとちがって、眠れない理由がひとつ増えていた。
*
夜中に目がさめた。
三度のうちの一度目だった。セレスティアは寝台に起きあがって、しばらくじっとしていた。それから、マントを肩にかけて戸を開けた。
当番の兵は廊下のつきあたりで、立ったまま舟をこいでいた。
彼女は音を立てずに兵の前を通りすぎ、中庭に出た。石だたみが冷たい。月は西にかたむいていた。
国田は荷車のわきにいた。
伏せていた。夕方と同じ形で額を石につけている。セレスティアが近づくと、額がもう少し低くなった。けれど顔は上げなかった。
彼女は国田の前に立った。
何をしに来たのか、自分でも分からなかった。叱りに来たのではない。叱ることが何もない。国田は命じられたとおりに荷の番をして、命じられてもいないのに伏せている。
それだけなのに、見おろしていると、胸の奥がざわざわした。
(……なぜ、こんなに)
右足が動いた。
ブーツのつま先が、国田のわき腹をこつんと小突いた。
蹴ったのではない。力は入っていなかった。道に落ちている小石を、歩きながら足でどかす。それくらいの動きだった。
国田の体が少しゆれて、それからもとの形に戻った。伏せたまま、声も出さなかった。
セレスティアはつま先を引いた。
胸の奥のざわざわが消えていた。
すっとした。雨のあとに空が晴れたような感じだった。彼女は自分の足を見おろして、それから国田を見おろした。
いま、自分は何をしたのか。
人を足で小突いた。王女が、隊長が、何の理由もなく、伏せている荷の番を。
「……私は、何を」
小さな声が出た。
国田は伏せたまま動かなかった。
セレスティアは口を開きかけた。何か言おうとした。悪かったと言うつもりだったのかもしれない。
けれど言葉は出てこなかった。
国田が何も求めていなかったからだ。顔も上げない。何も言わない。小突かれたことに気づいたのかどうかさえ分からない。あやまる相手がそこにいないのと同じだった。
彼女はマントをかき合わせて、背を向けた。
三歩歩いてふり返った。
国田は同じ形で伏せていた。月がその背中を白く照らしている。小突かれる前と小突かれたあとで、何ひとつ変わっていなかった。
(……鏡は、正しかったのね)
そう思って、セレスティアはまた背を向けた。
犬ならわかる。犬は人のすることをいちいち気にしない。蹴られても、なでられても、同じ形で伏せている。あやまる相手でもなければ、叱る相手でもない。
だから、いまのは何でもない。
部屋に戻って寝台に入った。
そのまま朝まで一度も目をさまさなかった。
*
鐘の音で目が開いた。
セレスティアはしばらく天井を見ていた。窓の外がもう明るい。鐘が鳴っている。つまり、鐘より遅く起きた。
二十二年ではじめてのことだった。
彼女は寝台から飛びおりて、よろいをつけ、剣を取って中庭へ走った。素ぶりをはじめたのは、いつもより半時遅かった。それでも千回は、いつもより早く終わった。体が軽い。腕がよく回る。朝の冷えた空気を、胸の奥まで吸える。
「隊長、きょうはお顔の色がいいですね」
当番の兵が言った。
「そう? よく眠れたのよ。めずらしく」
セレスティアはそれ以上は考えなかった。よく眠れた日は誰でも調子がいい。
ゆうべのことは思い出さないようにした。思い出すとほおが熱くなる。あれはたぶん、眠れなくて気が立っていただけだ。寝不足の人間は、ときどきわけの分からないことをする。
その日は一日、出発の支度で過ぎた。
午後、荷のしらべで帳面と荷の数が合わなかった。麦袋がひと袋足りない。兵が三人、倉を見てまわったが見つからない。セレスティアは荷車のあいだを歩いて、最後の一台の水だるの後ろをのぞいた。
袋はそこにあった。
「あったわ。積みまちがえただけね」
兵たちがほっとした顔をした。セレスティアは袋をたたいて次の荷車へ歩いた。水だるの後ろで国田が伏せていたことには、目をやらなかった。
探し物がすぐ見つかった。それもただの偶然だった。
荷車のわきを通るたびに国田は伏せた。そのたびに、胸の奥がまたざわざわした。ゆうべ消えたはずのものが戻ってきている。
いや、戻ってきたのではなかった。ゆうべより少し強くなっていた。
(……あんなことをしたせいで、気になっているだけ)
彼女はそう思うことにした。
夕方、副長が報告に来た。北の街道の橋が春の水で落ちたという。回り道をすると三日のびる。
「三日は、大きいわね」
セレスティアは地図を広げた。指で川をなぞる。上流に古い渡し場があったはずだ。地図には載っていない。けれど、子どものころに父王と通った道を彼女はおぼえていた。
「ここに、渡し場があるわ。回り道は、半日ですむ」
副長は地図と隊長の顔を、かわるがわる見た。
「よく、おぼえておいでで」
「きょうは、頭がよく回るのよ」
笑って言った。本当にそうだった。朝から何もかもがすんなり運ぶ。眠れた日はこうなのだと思った。
*
夕食のあと、セレスティアは部屋で手紙を書いていた。
王都を発つ前に、父王と二人の姉に出発の報せを書く。王女の習いだ。机に向かって羽ペンを取った。
三行書いて手が止まった。
廊下の向こうで物音がした。副長が当番の兵に何か言っている。それから戸がたたかれた。
「隊長。例の荷の番ですが、夜はどこに置きましょう。馬屋だと、馬がいやがりまして」
「……どこでもいいわ」
「は。では、隊長の部屋の前の廊下に。荷のそばより、目がとどきますので」
「好きになさい」
戸が閉まった。
しばらくして、廊下で何かが床につく小さな音がした。ひざと手と額の音だった。
セレスティアはペンを置いた。
戸の向こうに国田がいて、誰にも見られずに伏せている。
彼女は立ち上がって戸を開けた。
国田は戸のすぐわきの床にいた。廊下の灯りは落としてあって暗い。当番の兵はつきあたりで、きょうも舟をこいでいた。
セレスティアは国田を見おろした。
胸の奥がざわついている。ゆうべと同じだった。ゆうべと同じなら、どうすれば消えるのかも分かっている。
彼女はそれをしなかった。
かわりに国田の背中を見た。伏せているので背中が平らになっている。ちょうど椅子の座面ほどの高さだった。
「……そこにいるなら、少しは役に立ちなさい」
自分の声が思ったより冷たかった。
「中へ入って、机の前に、そのままの形で伏せていなさい」
国田は、声を出さずにうなずいた。
それから、ひざで床をすべるように部屋の中へ入ってきた。言われたとおり、机の前に伏せた。
セレスティアは戸を閉めて、椅子に座った。
机の下に、国田の背中がある。
彼女はブーツをはいたままの右足を、その背中に乗せた。
乗せただけだった。踏んだのではない。足を置く台がたまたまそこにあった。王宮の書斎には足置きの台があるが、ここにはなかった。それだけのことだ。
国田の体は少しも動かなかった。
セレスティアはペンを取った。
書き出しの一行で、また手が止まった。
机の下に人がいる。自分はその人の背中に足を乗せている。昼間なら、誰かに見られたらとても言いわけのできない形だった。
けれど、ここには誰もいない。戸は閉まっている。当番の兵は舟をこいでいる。そして足の下のこれは、見られていると感じさせない。犬が足もとにいても、誰も「見られている」とは思わない。
見られている、と感じなかった。生まれてはじめてのことだった。
肩から何かが落ちた。
四行目を書き、五行目を書いた。父王への手紙は十二行で終わった。それから上の姉への手紙を書きはじめた。
書いているあいだ、右足の下で国田の背中がゆっくり上下していた。息をしているのだ。あたたかかった。ブーツの革ごしにもそれが分かった。
彼女は途中で一度、左足も乗せた。
両足を乗せると腰が楽になった。一日じゅう立っていた脚の重さが、国田の背中に流れていく。ペンがすらすら動く。姉への手紙はいつもより長くなった。
下の姉への手紙を書き終えたとき、ろうそくが半分になっていた。
セレスティアはペンを置いた。
足はまだ乗せたままだった。おろそうと思えばいつでもおろせる。そう思いながら、彼女はおろさなかった。
机の上の手紙を三通ていねいに折って、封をした。それから、ようやく足をおろした。
「出なさい。戸の外で」
国田はうなずいて、ひざで床をすべって出ていった。戸が閉まる前に、彼女は国田の背中を見た。ブーツの土が少しついていた。
戸が閉まると、彼女はよろいの内がわから絹の包みを出した。
くるみをひとつ。二つ。三つ。
三つ目をかみながら、セレスティアは自分の右足を見た。足の裏がまだあたたかかった。
その夜も、彼女は一度も目をさまさなかった。
*
次の日の朝、隊は王都を発った。
百と八人の兵と四人の女の隊員と、荷車が六台。隊長をふくめて女は五人だった。セレスティアは先頭で馬に乗っていた。北へ向かう街道はよく晴れていた。
いちばん後ろの荷車に、国田が乗っている。
彼女は一度もふり返らなかった。ふり返る理由がない。あれは荷の番だ。
ただ、昼の休みに馬をおりたとき、足もとに国田が伏せているのを見て、彼女は少しだけ立ち止まった。
胸の奥はざわついていなかった。
かわりに、右足の裏が何かをおぼえていた。革ごしの、あたたかい、ゆっくり上下するもの。
セレスティアは、ブーツのかかとで石を蹴って、馬に戻った。
馬の上で、彼女はふと思った。今夜の野営で、あれはどこに置かれるのだろう。
考えたことに気づいて、首をふった。隊長が、荷の番の寝る場所を気にする理由はない。
けれどその夜、テントが張られたとき、彼女は副長にこう言った。
「荷の番は、私のテントのわきに。荷車より、目がとどくから」
副長は何も言わずにうなずいた。
*
その日の夜、野営の火から少し離れたところで、魔導士のノクティアが帳面を開いていた。
黒紫の長い髪が肩から落ちている。眠そうな半眼で、彼女は羽ペンを動かした。ノクティアは何でも帳面につける。天気も、食事も、隊の者の顔色も。学者のくせだった。
きょうのページには、こう書いてあった。
「隊長、二日続けて機嫌がよい。顔色よし。素ぶり、いつもより速い。昼食を二皿。理由、不明」
ノクティアはペンの尻をあごに当てた。
それから、火のそばで兵に何か話しかけている隊長を見た。次に、荷車のわきの暗がりを見た。黒いかたまりが伏せている。
彼女は帳面に一行足した。
「荷の番。二日前から。関係は不明」
ペンを置いて、ノクティアは本を開いた。すぐに読むのに夢中になって、帳面のことは忘れた。
思い出すのは、五日あとのことになる。

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