ジル・ラットテイルは、口が悪い。
「どけよ、でくのぼう。そこはあたしの席だ」
「うるせえな。てめえの足のにおいで鼻が曲がるんだよ」
「ケツでもなめてろ、ばーか」
朝の食堂でも、行軍の列でも、夜のたき火の前でも、彼女の口からは下町の言葉がぽんぽん飛び出す。兵たちはそれを笑って聞いている。赤茶色の髪を耳の下で短く切り、笑うと右の八重歯がのぞく。そでのない革の胴着に、短い革のズボン。小柄ですばしこくて、隊でいちばん年が若い。二十一の盗賊は、百と八人の兵にとって口の悪い妹のようなものだった。
隊での役目は斥候だ。本隊より半時先を走って、道と水場とあやしい影を見てくる。足が速く、目がよく、木にも塀にも猫のように登る。腕は確かだった。
ただし、えらくはない。
「ジル、ついでにこの手紙、先の村に届けてくれ」
「ジル、水をくんできて」
「ジル、あの枝の上の旗、取ってくれよ」
誰もが気軽に用を言いつける。いちばん若くて、いちばん新しくて、いちばん身が軽いからだ。ジルは「自分でやれよ」と悪態をつきながら、結局は走っていく。走っていくのが、子どものころからのくせになっていた。
王都の下町の盗賊団でも、彼女はいちばん下っぱだった。見張り、使い走り、逃げ道の下見。分け前はいつも最後で、いちばん少ない。文句を言えば頭をはたかれた。
隊に入って、頭をはたかれることはなくなった。飯も腹いっぱい食える。それでも、いちばん下であることは変わらなかった。
ジルは、誰かに命令をしたことが一度もない。
*
もうひとつ、兵たちの知らないことがある。
ジルは口でいうほどすれていない。
たき火の前で兵が女の話をはじめると、彼女はまっ先に下品な冗談を言って、いちばん大きな声で笑う。そうしていれば、誰も彼女に話をふってこないからだ。
本当のところ、ジルは男と手をつないだこともなかった。盗賊団にいたころは子どもあつかいで、相手にされなかった。隊に来てからは妹あつかいで、やはり相手にされない。口が悪いので、近よってくる男もいない。
知っているのは、下町で耳にした言葉だけだった。意味の半分は分かっていない。分かっていないことを、分かっているような顔で言う。それも下っぱが身につけたわざのひとつだった。
*
夜の見張りはジルの持ち場だ。
野営のはしの、いちばん高い木か岩の上に登って、朝まで目を開けている。盗賊は夜に強い。それに、彼女は見張りがきらいではなかった。誰にも用を言いつけられない、一日でただひとつの時間だからだ。
ひまなので、野営の中をながめる。
王都を発って七日のあいだに、ジルはおかしなことを三つ見ていた。
日がくれると、荷の番が隊長のテントに入る。隊長が夜の見回りに出ると、今度は先生の荷車に入る。ゆうべは、みなが寝しずまってから、聖女サマの天幕にまで入っていった。
荷の番というのは、召喚の儀で鏡に「犬」と出て、聖堂じゅうに笑われた、あのさえない男だ。水だると麦袋のあいだに座っていて、誰とも口をきかない。女が通ると、ひざをついて額を地面につける。ジルが通っても、そうした。
はじめて伏せられたとき、ジルは足を止めた。
「……なんだよ、こいつ」
胸のあたりがむずむずした。腹が立つというのとは少しちがう。けれど、それに近い。何か言ってやりたい。何かしてやりたい。そういう感じだった。
そのときは、舌うちをして通りすぎた。
隊でいちばんまじめな三人が、そろってあの男を夜中に呼びつけている。そして次の朝、三人ともきまって顔色がいい。
八日目の夜、ジルはがまんができなくなった。
*
聖女サマの天幕は、野営のはしにある。
ジルは木からおりて、影から影へ音を立てずに近づいた。盗賊の足は落ち葉の上でも鳴らない。天幕の布のつぎ目に、指一本ぶんのすき間があった。そこに片目を当てた。
ろうそくが一本ともっていた。
聖女サマは木の椅子に座っていた。目を閉じて手を組んでいる。祈っているように見えた。
ちがった。
法衣のすそがひざの上までたくし上がり、白いひざが左右に開いている。そのあいだに黒い髪の頭があった。頭が小さく動いている。
聖女サマのくちびるが開いた。
「あ……」
ジルはのどの奥で息を止めた。
聞いたことのない声だった。朝の祝福のときのあのやさしい声と、同じのどから出ているとは思えなかった。聖女サマのほおは赤く、眉は寄り、白い足の指が地面の上で丸まっている。
「そこ。……もう少し、そのまま。わたくしの、ために」
頭が動く。ぬれた小さな音がする。
ジルはすき間から目をはなした。
顔が熱かった。耳まで熱かった。心ぞうがのどのところで鳴っている。彼女は口を手でおさえて、四つんばいで天幕からはなれた。木の根もとまで戻って、幹に背中をつけて座りこんだ。
「…………うそだろ」
小さな声が出た。
下町の言葉なら知っている。兵と言い合う冗談にも出てくる。けれど、本当に目で見たのははじめてだった。それも、あの聖女サマが。
ジルは自分のひざを抱えた。
見てはいけないものを見た。そう思った。それなのに、頭の中ではさっきの声がくり返し鳴っていた。聖女サマのあの顔。気持ちよさそうだった。泣いているのに、気持ちよさそうだった。
ひざの上で、指がもぞもぞ動いた。
朝まで、彼女は木に登らなかった。見張りをはじめてさぼった。
*
次の日、ジルは一日、口数が少なかった。
斥候に出ても、石を二度けつまずいた。兵に「どうした、腹でもこわしたか」と聞かれて「うるせえ」と返したが、声に力がなかった。
昼の休みに荷車のわきを通ると、荷の番が伏せた。
胸のむずむずがまた出てきた。きのうまでより、ずっと強かった。
ジルは立ち止まって、国田の後頭部を見おろした。
隊長が、先生が、聖女サマが、この頭を夜中に呼んでいる。そして、いい顔になっている。
あたしは、ただ見てるだけ。木の上から。いつものように。
「……ずりいよな」
つぶやいて、歩きだした。
その夜、彼女は腹を決めた。
*
聖女サマの天幕から荷の番が出てきたのは、夜ふけだった。
ひざですべって、隊長のテントのわきへ戻っていく。その途中で、ジルは木の上から小石をひとつ、国田の前に落とした。
国田が止まった。
ジルは木からとびおりた。国田はすぐに伏せた。
「おい」
声が少しかすれた。せきばらいをして、言い直した。
「おい、荷の番。こっち来い」
国田はうなずいて、ひざで進んで、ついてきた。
ジルは、野営から少しはなれた岩かげまで歩いた。大きな岩が三つ並んで、たき火の明かりがとどかない。月だけが出ている。足もとに太い倒木がころがっていた。
彼女は倒木の前でふり返った。国田は三歩後ろで伏せていた。
来いと言ったら、来た。
それだけのことが、ジルにはふしぎだった。彼女が「来い」と言ってついてきた者は、いままで一人もいない。犬だって、盗賊団の犬は彼女をばかにして言うことを聞かなかった。
「……立て」
国田は立った。
「座れ」
座った。正座だった。
「伏せ」
伏せた。
ジルは口を開けてそれを見ていた。それから、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「は。……はは。なんだよ。あたしの言うこと、聞くじゃん」
声をおさえて、肩をふるわせて笑った。たったそれだけのことが、こんなにおかしくて、こんなに気分がいいとは思わなかった。
彼女は国田の肩をくつの先で小突いた。国田は少しゆれて、もとに戻った。もう一度小突いた。同じだった。
胸のむずむずがすっと消えた。
「へえ。……こうすりゃ、おさまるのか」
ジルは倒木に腰をおろして、足を組んだ。月の光で、八重歯が白く光った。誰かの上に座っている気分だった。
*
しばらく、ジルは国田を見おろしていた。
立て、座れ、伏せ。それを五回くり返させて、あきてきた。
聖女サマの顔が頭に浮かんだ。
あれを、やらせるのか。あたしが。
そう思ったとたんに顔が熱くなって、足を組みかえた。岩かげには誰もいない。月と、この男だけだ。この男は、何をさせても、うなずくだけだ。たぶん、誰にも言わない。言う口があるなら、聖女サマのことだって、とっくに隊じゅうに広まっている。
「……おい」
声が小さくなった。
「聖女サマに、何してた。ゆうべ」
国田は答えなかった。うなずくだけでは、答えようのない問いだったからだろう。ジルは舌うちをした。
「言わなくていい。見たから、知ってる。……同じこと、あたしにもやれ」
国田は、小さくうなずいた。
言ってしまった。
ジルは立ち上がって、腰ひもに手をかけた。指がうまく動かなかった。ひもをほどくのに、ずいぶんかかった。革のズボンを下着ごとひざまでおろす。夜の空気が、はだかの腰に冷たかった。
倒木に座り直した。木の皮がしりにざらざらした。ズボンがひざにからんで足が開かないので、片足だけぬいた。
ひざを少し開いた。
「……見んなよ」
見るなと言っても、国田はもともと顔を上げていなかった。伏せたままひざで進んできて、正座になる。倒木は低いので、国田が首をのばすと、ちょうど顔がジルのひざのあいだに来た。
息が当たった。
「ひゃ」
ジルはひざを閉じかけた。国田の頭がはさまった。
「ま、待て。……いや、待つな。やれ」
舌が触れた。
「うひっ」
変な声が出た。
くすぐったかった。あたたかくて、ぬるぬるして、とにかくくすぐったい。ジルは倒木の上で身をよじった。腹の筋がひくひく動く。
「ちょ、ちょっと。くすぐってえ。あは、やめ、あははは」
笑いが止まらなかった。舌が動くたびに、わき腹をくすぐられているような感じがする。気持ちいいのかどうか分からない。分かる前に笑ってしまう。
舌が上のほうへ動いた。そこに触れたとき、少しだけちがう感じがして、ぞくっとした。
けれど、それもすぐにくすぐったさにまぎれた。
「あは、だめだ、むり。むりむり。はなれろ」
ジルは国田の頭を両手で押しのけた。国田はすぐにはなれて、伏せた。
彼女は倒木の上で肩で息をしていた。笑いすぎて、目に涙がにじんでいる。
「……なんだよ。こんなもんかよ」
息がおさまると、ジルは口をとがらせた。
「聖女サマ、これで泣いてたのか。分かんねえ。あたしには、くすぐってえだけだ」
がっかりした。それと同時に、少しほっとしてもいた。あの聖女サマと同じ顔に自分がなるところは、どうにも思いうかばなかったからだ。
*
ジルは立ち上がった。
倒木に手をついて、片足をズボンにつっこむ。かがんだので、はだかのしりが後ろにつき出る形になった。国田はその後ろで伏せている。
ズボンが足首で引っかかった。
「ちっ。……ああもう」
いらいらした。期待して、はずれた。ばからしい。見張りまでさぼって、何をやっているのか。
彼女はズボンと格闘しながら、後ろに向かって悪態をついた。兵と言い合うときの、いつもの言葉だった。考えて言ったのではなかった。
「もういい。おまえなんか、ケツでもなめてろ」
返事はなかった。
かわりに、すぐ後ろで、ひざで地面をする音がした。ジルがふり向くより先に、しりの谷間にあたたかい息が当たった。
「は? ちょ、おまえ、なに」
舌が触れた。
しりの穴に、じかに。
「ひっ」
ジルの体がかたまった。
片足はズボンの中、片足は外。両手は倒木について、腰はかがんだまま。動けなかった。
くすぐったくはなかった。
舌の先が、すぼまったところを下から上へゆっくりなぞった。ひとなでで、背骨の下から首の後ろまで何かがかけ上がった。ひざの力がぬけた。
「……え」
もう一度なぞられた。
「あ」
声が変わっていた。さっきの「うひっ」とはまるでちがう。低くて、のどの奥から出る声だった。
「ちが、いまのは、言葉のあやで。本当になめろって意味じゃ」
言いかけて、ジルは口をつぐんだ。
舌が、しわの一本一本をたどるように円をかいた。汗と一日ぶんのよごれが、そこにはあるはずだった。斥候は一日じゅう走る。川で洗ったのはおとといだ。
それを、この男はためらいもなく舐めている。
「……きたねえぞ、そこ」
小さな声で言った。国田はやめなかった。やめろとは言われていないからだ。
舌がまん中を、とん、とつついた。
「んっ」
ジルの指が倒木の皮に食いこんだ。
前とはぜんぜんちがった。くすぐったくない。笑えない。かわりに、腹の底がじんとする。腰の奥がとけるように熱い。何が起きているのか分からなかった。分からないまま、しりがひとりでに後ろへ出ていった。
「なんだよ、これ。……なんで、こっちのほうが」
舌が平たくなって、穴をまるごとおおった。そのまま小さく上下に動く。
ジルは倒木に額をつけた。
「あ、あ。……やば。それ、やばい」
足がふるえた。外に出ていたほうの足を、もっと奥までとどくように、ひとりでに横へ開いていた。国田の鼻が谷間にうまる。舌の先が、少しだけ中に入ってきた。
「うあ……っ」
月が岩の上にあった。野営のたき火は遠い。誰も見ていない。
ジルは口を腕でふさいだ。それでも声がもれた。兵と冗談を言い合うときの声ではない。聞いたことのない、自分の声だった。
ゆうべ聖女サマが出していたのと、同じ種類の声だった。
長いこと、舌は動いていた。ジルは何度かやめさせようとした。そのたびに「あと少し」と思って、言わなかった。
やがて、腰の奥の熱がぎゅっとちぢんで、はじけた。
「……っ、あ、ああ……っ」
ひざが折れた。ジルは倒木にしがみついたまま、地面にしゃがみこんだ。背中がひくひくとふるえている。前には一度もさわられていなかった。それなのに、太ももの内がわがぬれていた。
国田は舌をはなして伏せた。
ジルはしばらく動けなかった。
*
息がおさまって、ジルはのろのろとズボンを上げた。
腰ひもを結ぶ指がまだふるえている。顔は、月の下でも分かるほど赤かった。
彼女は伏せた国田を見おろして、何か言おうとした。口の悪い彼女が、言葉をさがしていた。
「……いまのは、あれだ。その」
見つからなかった。
「言うなよ。誰にも」
国田はうなずいた。
「言ったら、蹴る」
国田は、小さくうなずいた。
ジルはくつの先で国田のわき腹を小突いた。さっきより少し弱かった。
「……あしたの晩も、来い。ここに」
言ってから、口をへの字にした。
「前は、もういい。合わねえ。……後ろだけ、やれ」
国田はうなずいて、ひざで岩かげを出ていった。
ジルは倒木に座ろうとして、やめた。しりがまだじんじんしていた。立ったまま岩にもたれて、月を見あげた。
隊長と、先生と、聖女サマは、たぶん前を使っている。聖女サマは、たしかにそうだった。
後ろは、あたしだけだ。
そう思うと、口のはしが上がった。誰も知らないやり方を、いちばん下っぱの自分がいちばん先に見つけた。それは、盗みでいちばんいい獲物を取ったときより、ずっといい気分だった。
*
次の日、ジルは一度もけつまずかなかった。
斥候に出ると、足が地面をけるたびに体が前へ飛ぶ。いつもより半時早く、先の村まで行って帰ってきた。道のわきの草むらで、誰かが落とした銀貨を一枚ひろった。
夜のたき火で、兵たちとさいころをふった。
ジルはばくちに弱い。下町のころから負けてばかりだ。隊に来てからも、給金の半分は兵のふところに消えている。
その夜は、五回ふって、四回勝った。
「おいおい、どうした、ジル。いかさまか」
「うるせえ。たまたまだよ」
たまたまだと、ジルも思った。銅貨が十二枚ふところに入った。
次の夜も、岩かげに国田を呼んだ。その次の日も斥候は速く、さいころは七回のうち五回勝った。
三日目に、彼女は気づいた。
頭のいい先生なら、帳面を見くらべて考えるところだ。ジルはそんな面倒なことはしない。勝った日と負けた日を、指で数えただけだった。
「……あれをやった次の日は、勝つ」
損と得には鼻がきく。それが、下町で生きのびてきた者のただひとつのとりえだった。
だから隊長も先生も聖女サマも、やっているのか。
ジルは、たき火の向こうの三人を順に見た。隊長は兵と笑って話している。先生は本を読んでいる。聖女サマはほほえんでスープを飲んでいる。三人とも、何も知らないという顔をしていた。たがいのことも、たぶん知らない。
知っているのは、木の上から全部見ていた、あたしだけだ。
ジルはにやりとした。それから、その笑いを引っこめた。
黙っていよう、と思った。言えば弱みをにぎったことにはなる。けれど、言ったら最後、あの岩かげの時間もなくなるかもしれない。隊長に取りあげられたら、おしまいだ。
「勝つためだ」
小さく口に出した。
「勝つために、やってんだ。あたしは。……それだけだ」
さいころをにぎりしめた。
*
たき火のはしで、帳簿を開いている女がいた。
くり色の巻き髪に、細い金のふちのめがね。隊の金と荷をあずかる、商人のマルグリットだった。彼女は羽ペンを動かしながら、ときどきめがねの奥の目を上げた。
「ジルさん。今夜も、お勝ちになりましたのね」
おだやかな声だった。
「三日で、銅貨が三十一枚。あなたがこの隊にいらしてから、勝ち越したのは、はじめてですわ」
「……数えてんのかよ」
「帳簿をつけるのが、仕事ですもの」
マルグリットはにっこりした。それから、帳簿のページを一枚めくった。
そこには、隊の荷がひとつずつ書いてある。麦が何袋、干し肉が何きん、馬が何頭。そのいちばん下に、小さな字で一行あった。
「召喚者・一。荷の番」
値を書く欄は空いたままだった。
マルグリットはペンの先で、その空いた欄をとん、とたたいた。たき火の向こうの荷車のわきに、黒いかたまりが伏せている。彼女の目が、それを頭の先から足の先まで、ゆっくりなぞった。
机がわりの荷箱の下で、彼女のくつの先がぴくりと動いた。
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