聖女リリエル・サンクティスは、誰にでもていねいだ。
王にも兵にも馬屋番の子どもにも、同じ声で、同じ言葉づかいで話す。「おそれ入ります」「どういたしまして」「お気になさらず」。淡い桃色の髪を肩の下でゆるく波うたせ、純白の法衣にはしみひとつない。口のはしは、いつも同じ形に上がっている。二十一になるこの聖女が声をあらげるところを見た者は、王国に一人もいなかった。
姫騎士隊での彼女の一日は、夜明けの前にはじまる。
まだ暗いうちに起きて、冷たい水を頭からあびる。それから小さな天幕の中でひざをつき、朝の祈りを一時間。石の上でも、ぬかるみの上でも、祈りのあいだは動かない。足がしびれても虫がはっても、ほほえんだまま手を組んでいる。
日がのぼると、兵が並ぶ。
朝の祝福だ。兵は一人ずつ聖女の前にひざをつき、法衣のすそに口づけする。リリエルはその額に手を置いて、短い言葉をとなえる。百と八人。けがのある者には、白く光る手をかざして治す。手は傷の上にかざすだけで、肌には触れない。
聖女は人前で食事をしない。祝福がすむと天幕に戻り、白湯と、ひと切れの白パンを、ひとりで少しだけとる。
聖女の体には、誰も触れてはならない。王でも、侍女でも。教えの書の、いちばんはじめに書いてある決まりだった。
それが聖女のつとめだった。人の上に、清くあること。誰にも触れず、誰にも触れさせないこと。そう教わって育ち、そのとおりにしてきた。苦しいと思ったことはない。少なくとも、そう思ったことはないと、彼女は思っていた。
*
リリエルには、誰にも言えないことがある。
ざんげを聞くのは、聖女の役目だ。旅の途中の村でも町でも、天幕の布ごしに、人が打ち明け話をしに来る。盗みをした者。うそをついた者。親をうらんでいる者。彼女はそれをうなずいて聞き、ゆるしの言葉をとなえる。
その中に、女たちの話がある。
夫とのこと。夫ではない男とのこと。夜の床で、何をして、何をされて、どう感じたか。村の女たちは、布の向こうにいるのが若い聖女だということを、あまり気にしない。むしろ、くわしく話す。話してしまえば、ゆるされるからだ。
リリエルは、ほほえんで聞く。
「まあ。それは、罪ではございませんわ。神さまは、夫婦のむつまじいことを、およろこびになります」
声は少しもゆれない。
けれど布のこちらがわで、彼女の耳は熱くなっている。ひざの上で、白い指がきつくからみ合っている。舌を、そんなところに。それで、そんなふうに。聖女は一生、誰とも交わらない決まりだ。教えの書にそう書いてある。だから彼女は、言葉でしか知らない。言葉でしか知らないことが、頭の中にずいぶんたまっていた。
その夜は、祈りがいつもより長くなる。
*
召喚の儀の日、リリエルも大聖堂にいた。
鏡に「犬」と出た国田が、笑い声の中で石の床に額をつけたままでいるのを、彼女は見た。聖堂の誰もが鏡の字を笑っていたとき、それを見ていたのは、隊長とリリエルの二人だけだった。
そのときは、何も思わなかった。あわれな方、と思っただけだ。
二日後、隊が王都を発つ朝のことだった。
朝の祝福の列のいちばん後ろに、国田がいた。副長が、「荷の番も隊の者ですから」と並ばせたのだ。兵が一人ずつ祝福を受けて、列がへっていく。最後に、国田だけが残った。
国田はリリエルの前でひざをついた。兵のように片ひざではない。両ひざをつき、両手をつき、額を土につけた。
リリエルは、いつものように手をのばした。
黒い髪の頭が足もとにある。祝福は、額に手を置いてとなえる。この男は額を土につけているので、後頭部しか見えない。
手が止まった。
胸の奥で何かが動いた。小さな、熱い、しこりのようなものだった。
(……なんですの、これは)
リリエルはほほえんだまま、まばたきをした。
祝福の言葉は、もう何千回となえたか分からない。眠っていても言える。それが、のどのところで止まっていた。かわりに、別の言葉が口から出た。
「……あなたには、祝福は、もったいのうございますわね」
やさしい声だった。いつもと同じ、ていねいな言葉づかいだった。
言ってから、リリエルは自分の口を手でおさえた。
いま、何と言ったのか。聖女が。朝の祝福の列で。ひざをついている者に向かって。
国田は伏せたまま、小さくうなずいた。
おこりも、かなしみもしなかった。当たり前のことを言われた、という、うなずき方だった。
まわりの兵は、もう食事の鍋のほうへ行っていた。誰も聞いていなかった。
リリエルは、のばした手を引いた。祝福はしなかった。国田はひざで後ろにさがって、荷車のほうへ戻っていった。
彼女は、その場に立っていた。
胸のしこりが消えていた。かわりに、すうっと風が通ったような感じがあった。重い法衣を一枚、ぬいだような。
それが気持ちいいということに、リリエルは気づいた。気づいて、ぞっとした。
*
その夜、彼女はいつもの倍、祈った。
「神さま。わたくしは、きょう、ひざまずく者にひどいことを申しました。なぜ申したのか、自分でも分かりません。どうぞ、おゆるしくださいまし」
天幕の中で、額を地面につけた。ひざが痛くなるまで、そうしていた。
次の朝、いつものように暗いうちに起きた。水をあびて、祈りの形にひざをついた。
一時間たって立ち上がったとき、リリエルは首をかしげた。
足がしびれていなかった。
いつもなら、立ってから歩けるようになるまでしばらくかかる。それが、すっと立てた。ひざも痛くない。ゆうべ、あれだけ長く地面についていたのに。
朝の祝福でも、ちがいがあった。足首をひねった兵に手を当てると、いつもなら三日かかるはれが、その場で半分引いた。兵がおどろいて、何度も礼を言った。
「まあ。きっと、ゆうべのお祈りが届いたのですわ」
リリエルはそう思った。ざんげをして、心が軽くなった。だから、癒しの力もよく通った。筋の通った話だった。
列の最後に、また国田がいた。
ひざをつき、額を土につけた。
胸のしこりがまた出てきた。きのうより、はっきりしていた。
リリエルはまわりを見た。兵はもう鍋のほうへ歩いている。隊長は馬の具合を見ている。誰も、こちらを向いていなかった。
彼女は手をのばさなかった。かわりに、ほんの少し身をかがめて、小さな声で言った。
「けさも、いらしたのですね。並んでも、何もさしあげられませんのに。……おわかりにならないのかしら。それとも、わかっていて、そうしていらっしゃるの」
国田はうなずいた。
「どちらの、うなずきですの。まあ、どちらでも、同じことですわね」
しこりが消えた。風が通った。
リリエルは体を起こして、いつものほほえみで天幕へ戻っていった。白パンをひと切れ、口に入れた。その朝のパンは、なぜか、いつもよりおいしかった。
*
三日目から、彼女はそれに名前をつけた。
修行、という名前だった。
「けがれた者を前にして、心を乱さずにいる。それも、聖女の修行のうちですわ」
誰に言うでもなく、祈りの天幕の中でそうつぶやいた。心を乱さないための修行なら、毎朝あの男の前に立つのは正しいことになる。立って、思ったことを口に出すのも、心の中にためないためだ。ためないことは、よいことだ。
筋は通っていた。
朝の列の最後で、リリエルは毎日、国田に何かひと言、言うようになった。
「まだ、いらしたのですね」
「きょうも、土のお味はいかが」
「あなたが息をなさるたびに、空気が少しもったいない気がいたしますわ」
声は、ざんげを聞くときと同じにやさしい。言葉づかいは、王に向かうときと同じにていねいだ。中身だけが、聖女の口から出るはずのないものだった。
国田は、いつも、うなずいた。
言ったあとは、一日じゅう体が軽かった。癒しの手は、日ごとによく通るようになった。朝の祈りで足がしびれることは、もうなかった。眠気も、昼すぎに来なくなった。
リリエルは、それを全部、修行の成果だと思った。
*
王都を発って七日目は、巡礼祭の日だった。
街道ぞいの古い聖堂に、近くの領主の奥方や村々の長が、着飾って集まってくる。王都の聖女が通ると聞いて、ひと目会いにきたのだ。リリエルは聖堂の段の上に、朝から日ぐれまで立ちつづけた。ひざまずく者が、ひとりずつ法衣のすそに口づけし、彼女はその額に手を置く。三百人をこえた。
聖女は、ひざまずく者の前で座らない。古くからの習いだった。
「聖女さま、ありがたいことでございます」
「どうぞ、神さまのお恵みがありますように」
ほほえんで、最後のひとりまで立ちとおした。白い絹の靴の中で、足が熱くはれていた。
野営に戻って、兵たちが寝床に散っていく。リリエルは、自分の小さな天幕に入った。
中には、祈りのための木の椅子がひとつと、毛布と、ろうそくと、当番の兵が運んできた湯のおけがある。彼女は椅子に腰をおろして、絹の靴をぬいだ。
つま先が赤くなっていた。土ふまずが、じんじんと痛んだ。
聖女の体には、誰も触れてはならない。
侍女でさえ、聖女の足をもむことは許されない。痛めば、自分で祈って治す。けれど聖女の光は、どういうわけか、自分の体には効かなかった。二十一年、ずっとそうだった。
リリエルは、ひざの上の自分の手を見た。それから、はれた自分の足を見た。
胸の奥で、しこりではない、別のものが動いた。もっと重くて、もっと古いものだった。
彼女は、天幕の入口の布を少し開けた。
隊長のテントのわきに、いつもの黒いかたまりがある。隊長は、まだ副長と話している。兵はもう寝ている。
「……そこの方。こちらへ、いらしてくださいまし」
小さな声だった。国田はすぐに、ひざですべってきた。
「お入りなさい。修行の、お手伝いをしていただきます」
国田は、小さくうなずいた。
布を閉じた。
*
天幕の中は、二人入るといっぱいだった。
リリエルは椅子に座っている。国田は、その前の地面に伏せている。あいだに、湯のおけがある。
「顔は、上げなくてけっこうですわ。手だけ、お出しになって」
国田は伏せたまま、両手を前に出した。
リリエルは右足をおけの湯につけた。ぬるくなっていたが、気持ちよかった。
「もんでくださいまし。……誰も、触れてはならないところですけれど。あなたは、数に入りませんもの」
国田の手が足に触れた。
大きくて、かたい手だった。それが、おどろくほどていねいに動いた。かかとを包み、土ふまずをもみほぐし、指を一本ずつ、つけ根から先へ洗っていく。指のあいだにも、指が入ってくる。
リリエルは息を止めていた。
人に、体を触れられている。
湯の中で、足の力がぬけていった。一日じゅう、段の上に立ちとおした足だ。その重さが、国田の手の中にとけていく。目の奥が熱くなった。
(……わたくしは、これが、ほしかったのかしら)
そう思って、彼女は首をふった。聖女が、ほしいなどと思ってはならない。これは修行だ。けがれた者の手に触れられても、心を乱さない修行。
「……反対も」
左足も洗わせた。
両足がすむと、国田は自分のそでで足をふいた。ふき終わると、また手を引いて伏せた。何も言わない。ほめてほしそうにもしない。洗えと言われたから洗った。
リリエルは、きれいになった自分の足を長いこと見ていた。
それから、ろうそくの火を見た。天幕の布を見た。外は静かだった。
ざんげの布ごしに聞いた、女たちの声が頭の中でした。舌を、そんなところに。それで、そんなふうに。
聖女は誰とも交わらない。教えの書にそう書いてある。人と交わってはならない、と。
足もとのこれは、鏡に「犬」と出た。祝福をさずけるにも当たらない。神さまも、たぶん、数に入れていらっしゃらない。
人の数に、入らないもの。
リリエルは、ひざの上で指をからめた。ほどいた。また、からめた。
「……ひとつだけ」
声がふるえた。
「ひとつだけ、わがままを申します。修行の、続きですわ。けがれに、もっと近く向き合う修行。……そういうことに、いたします」
国田は伏せたまま待っていた。
彼女は法衣のすそを両手でつまんで、ゆっくりひざの上まで引きあげた。その下の白い下ばきに指をかけて、腰を少し浮かせる。足首まで落として、片足ずつぬいた。
すそは、太ももの半ばまで上げた。それ以上は、手が動かなかった。
「正座なさって。……お顔を、ここへ」
ひざを、少しだけ開いた。
国田が体を起こし、正座になった。祈りの椅子は低い。国田が首をのばすと、ちょうど開いたひざのあいだに頭が入る。法衣のすそが、国田の頭の上にかかった。
息が内ももに当たった。
リリエルは目を閉じた。手を組んだ。祈るときと同じ形だった。
「……舐めてくださいまし。そっと」
舌が触れた。
やわらかかった。あたたかかった。閉じた割れ目を、下から上へゆっくりなぞってくる。女たちの言葉がうそではなかったことが、すぐに分かった。うそどころか、言葉では十分の一も言えていなかった。
「あ……」
組んだ手に力が入った。
舌は何度も同じところをなぞった。割れ目が少しずつ開いていく。内がわに舌が入ってきた。うすいひだを、一枚ずつ。
「まあ。……まあ」
声が高くなった。ほほえみはくずれていなかった。けれど眉が寄り、ほおが赤くなり、くちびるが少し開いていた。
舌が、上のほうの、小さくふくらんだところに触れた。
リリエルの腰が椅子の上で浮いた。
「そ、そこは。……いけませんわ。そこは、あまりに」
いけないと言いながら、彼女はひざを開いた。こぶしひとつぶんが、二つぶんになった。国田の頭が、もっと深く入った。
舌はそこを、ゆっくり円くなでた。急がなかった。同じ速さで、同じ強さで、いつまでも。
リリエルは祈りの言葉をとなえようとした。朝の詩の、最初のひとふし。何千回となえた言葉が、三つ目の語で止まった。その先が出てこなかった。頭の中が、白くてあたたかいもので、いっぱいになっていた。
人のために祈る。人のために立つ。人のために聞く。誰にも触れず、誰にも触れられずに。
いま、この舌は、彼女のためだけに動いている。
涙がほおをつたった。かなしいのではなかった。
「……もう、少し。もう少しだけ。わたくしの、ために」
声は、もう聖女の声ではなかった。二十一の、ただの娘の声だった。
波は静かに来た。組んだ手がほどけて、椅子のひじをつかんだ。白い足の指が、地面の上で丸まった。腰が小さく二度ふるえて、長い息がくちびるからもれた。
「あ……あぁ……」
あふれたものを、国田は音を立てずに飲んだ。
しばらく、天幕の中には彼女の息の音しかなかった。
やがてリリエルは、手の甲でほおの涙をぬぐった。法衣のすそをおろした。背すじをのばした。口のはしを、いつもの形に上げた。
「……けっこうですわ。お下がりなさい」
声は、もとのやさしい声に戻っていた。
「このことは、どなたにも。……申すお口も、お持ちではないでしょうけれど」
国田はうなずいて、ひざで後ろへさがって、布をくぐって出ていった。
リリエルは椅子の上で、しばらくじっとしていた。
ろうそくの火がゆれている。きれいになった足が、あたたかい。ひざのあいだも、まだあたたかい。
彼女は小さく笑った。声を立てない、息だけの笑いだった。
「……修行ですわ。これも」
誰も聞いていない天幕の中で、そうつぶやいた。その言葉を自分がもう半分も信じていないことに、彼女は気づかないふりをした。
*
次の朝の祈りは、短かった。
ひざをついて、手を組んで、朝の詩をひとふし。それで立った。一時間、祈らなかった。聖女になってから、はじめてのことだった。
祈らなくても、手は白く光った。朝の祝福で、兵の古い肩の痛みが一度で消えた。兵は目をまるくして、聖女の手をおがんだ。
列の最後に、国田がいた。
リリエルはほほえんで、身をかがめた。
「おはようございます。ゆうべは、よくおやすみになれまして? わたくしは、とてもよく眠れましたの。あなたのおかげでは、ございませんわよ。修行の成果ですわ」
国田は、小さくうなずいた。
「今夜も、修行をいたします。みなさまが寝しずまったら、いらしてくださいましね」
ささやいて、彼女は体を起こした。
その朝、リリエルは天幕に戻らなかった。たき火のそばの朝食の輪に、白い法衣のまま腰をおろした。兵たちがあわてて立ち上がった。
「まあ、お気になさらず。……きょうは、こちらでいただきますわね。おなかが、すいておりますの」
聖女が、はじめて兵たちの前で食事をした。白パンを、おかわりした。それを見た兵たちは、なぜか、いつもよりうれしそうな顔をした。
*
その朝、野営のはしの高い木の上で、小さな影があくびをしていた。
赤茶色の短い髪。そでのない革の胴着。夜の見張りを終えたばかりの、盗賊のジルだった。枝にまたがって、足をぶらぶらさせながら、朝の列をながめている。
「……変なの」
ジルは鼻の頭をかいた。
見張りはひまだ。ひまだから、野営の中のことがよく見える。この七日で、彼女は三つ、おかしなことを見ていた。
夜、隊長のテントに、荷の番が入っていく。半時たつと、書庫の荷車に入っていく。ゆうべは夜ふけに、聖女サマの天幕にまで入っていった。
出てくるとき、荷の番はいつも同じだ。ひざですべって、暗がりに伏せる。
入れたほうは、次の朝、きまって顔色がいい。
「あいつら、三人そろって、何やってんだ」
ジルは枝の上で首をひねった。
隊長と、先生と、聖女サマ。この隊で、いちばんまじめな三人だ。その三人が、そろって夜中にこそこそしている。相手は、あの、さえない荷の番。
気になる。気になると、じっとしていられない。それが、ジルという女だった。
彼女は枝からとびおりた。音は、しなかった。
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